my history マイ ヒストリー
steps | memory | |
1971(昭和46) (株)タカモトミンク入社 | 根室市丸辰でミンクの養殖から会社が出発しました | 学生のまま入社しました。 英語の先生になる予定でしたが・・・・ 毛皮の縫製が手探りの頃、英文の技術書が参考になりました。 |
1973 第一回ファッションショー(帝国ホテル) | ||
1976 ツイスト (初の毛皮製品特許取得) | 1本のミンクを螺旋状に縫い合わせました。 タイ、リボン、ヘアーバンドに |
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1978 ミンクテール・ドットSNジャケット発表 | ミンクテールを人工スエードと市松状にはぎ合わせました。 | |
1984 ファーヤーンジャケット 1987 ファーヤーン特許取得 |
ミンクやフォックスを3mmの糸状にして手編みしました。 | |
1980 ニットテープイン・ファージャケット発表 | ニットテープと毛皮テープの縫い合わせ | |
1985 1階店舗改装(店舗〜1993年まで) | 西麻布交差点角で48年間営業してまいりました。 | |
1988 パズル15(毛皮見積りシステム) フランクフルトメッセで発表 |
デザインを数値から面積化して使用枚数、作業時間の算出ができるようにしました。 12カ国からオファーがありました。 着丈やバスト寸法など15項目の数値を入れれば価格が算定できるというものです。 |
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1992 ミンク・スエード・リバーシブルコート発表 | 1枚仕立てのミンク 皮面をスエード加工、プリント加工してミンクの加工の主流がレットアウトから完全にスキンオンスキンに移行しました。 新宿、自由が丘にあるブテックから多くの発注がありました。 |
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1996 秋篠宮殿下妃殿下をお招きして セーブルとハーブの集い(リーガーロイヤルホテル) |
ソヴィエットからロシアに移る頃、貴重なセーブルを手に入れることができました。 世界で一番透明度の高いバイカル湖の東岸の渓谷バルグジン種のセーブルが手に入りました。 日本人の遺伝子はこの地域の人たちに近いという研究報告があります。だからロシア民謡などが日本人に好かれるのでは・・・・ |
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1997 ミンク・ アペルタ (軽さと柔らかさを求めて)開発 |
毛皮反対運動にあいましたが、毛皮に見えない毛皮の開発となりました。軽く、持っていても楽ということで好評を得ました。 | |
2001 21のパズル完成 21のパズル・ブログにリンクできます |
おじやんおばやん杯 アラン杯 ママさんバレーの大会開設 |
9人制バレーボールの得点経緯をミスと連続得点から勝敗を分析できるようにしました。 表記方法はオットセイのステップレットからヒントを得ました。 ハタチ(hata-chi)はふたじゅう(huta-ju) hutaはふたつにする、ふた(蓋)をする、地のはて(果て)、はたく(叩く)、焼はた(畑)などワケルという意味があるようです。 バレーボールが21なのは20で終わるのだが1つだけ大人になっても遊び心を持とうという意味と理解しています。 ギリシャの神様21人に空大砲を撃つという儀式とも関係があるかもしれません。 |
2003 ファルファーラ |
冷房が強くてという方々、夏の避暑地の為のサマーファー、 秋口に着れるなど、ファーファッションのシーンが広がりました。 |
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2004 プリマモーレ(初恋) ガージングストレッチテープ |
縦使いのコートを軽く柔らかくカジュアルに仕立て直す方法として開発しました。 毛皮が認められ、若い人たちから支持をえるようになりました。 刺し毛付のミンクが回復したので、みなさんに新しいデザインでもう一度着ていただけます。 |
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2007 ラッフル トリコストレッチテープなどと縫い合わせ |
フォックスなど毛量のある素材のバルキー感を落とす為、同時に軽く仕上げることができました。 ライナーなどへの転用にもこの技術が有効です。 |
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2011 目黒アラン工房にタカモトの技術は すべて移管・継承されました | アランはアイルランドの西端の孤島 アランセータ(縄網模様など)で有名 今もゲーリック語(ケルト語)の残る島 ドイツのハレ、オーストリアのハルシュタットのhal はケルト語で塩。 アランマークはアイリッシュハープをデザインしました。 和音の第3音を発見したのはケルト人だと言われています。 アイルランドの音楽にはタイタニックのテーマ曲やエンヤなどの伸びやかな純正律の音楽と カントリーウエスタンに繋がるリズムカルな対照的な音楽があります。ローカルではポルトガルのファドのような民衆の唄があります。 |
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アラン工房 スタッフ |
工房責任者 営業経理 アトリエ1 アトリエ2 アトリエ3 |
佐野アラン 高本 渡辺、山本、高梨 安田 畔柳、高田 |